政治スタンス判定
The Political Compassによる政治スタンス判定テストです。結果は
だそうですよ。グラフで見るとほぼ真ん中ですな。
世界の中心で左右をヲチするノケモノ経由で自分の政治的位置を知る(3) からの情報です。
結果が真ん中らへんなのでちょっと安心。
…でも日本人がやると大抵左によるという説もあり、国内的には右か?右なのか?
あと単に優柔不断とか支離滅裂でも真ん中へんに来そうな気がするな。
反国家分裂法の二項対立
日米安全保障協議委の声明
「台湾問題、中国に平和的解決要求 日米安全保障協議委」という記事がasahi.comに載りました。これは日米の担当閣僚による安全保障委員会の声明です。以下引用。
近年の中国の軍事力増強を念頭に、「台湾海峡を巡る問題の平和的解決」を求める考えを戦略目標で明記。台湾への武力行使を否定しない中国を牽制したものだ。
これだけみると、日米が中国に「戦争やめてね」と忠告したぐらいのソフトイメージです。が、実際はそんな簡単な問題ではないのです。
これを受けての中国の反応
新浪網(中国大陸の新聞)の記事「台湾海峡を日米安保に組み入れる」を要約するとこんなかんじ。
で、中国としては面白くないわけです。同じく新浪網の「中国は断固として反対する」によると
- 日米軍事同盟(安保)は二国間の問題だ
- 故にそれ以外の地域についてまで影響力を持つべきではない
- 中国は平和外交政策を遂行している
- だから国家間の戦争などありえない
てな具合です。平和大好き中国の問題に軍事同盟で口出したいってことは君たち台湾を自分のものにするつもりだね?とかそのぐらいの勢いです。
反分裂国家法(反国家分裂法)
これは中国が3月の全人代で決議予定の国内法で、分離独立しようという企みをもった者は軍事制圧も込みでばっちり制圧しちゃうという実にアグレッシブな代物。
で、台湾としてはこれが成立しちゃうと非常に困る。なにしろ
- 「反分裂」の前提である「今は分裂してない」「つまり統一」という前提により台中の曖昧な関係を明確に「中国の一部」と表明することになるので、(一応平和な)現状の維持が困難になる
- 一方的に台中問題の主導権が中国にあるものとして強行することが可能となる
- 適用範囲が広すぎることになるだろう。しょっぴけまくりの侵攻できまくり。
- つまりこれは実質的に、『侵略推進法』として機能しうる
てな内容が予想されるからだ。
「中国に侵略推進法の断念要求「反分裂国家法」は平和破壊の侵略法」「反国家分裂法」へのQ&A中国は海峡の現状を無視し台湾を挑発」あたりも参照。中台という極めて特殊なケースにそんな無理やりな法律で意味あるのかという疑問も無くは無いのだけれど、ぶっちゃけやったモン勝ちの口実にされちゃかなわんというとこですな。
冒頭、中国よりの主張が目立つ朝日の記事がなぜあれほどソフトなのかというと、あんまり詳しく突っ込むと、今までスルーしてきた「反分裂国家法」についても詳しく書かなくちゃいけないので都合が悪いのではないかと思われるです。
今回の問題の争点はここにあり、日米の出方なんてのは実は末節に過ぎないのです。
しかしなんでそんな法律が必要になってしまったのか?中国の覇権主義という点ももちろん考慮すべきだが、そもそもの間違いは1949年にさかのぼる。
ふたつでひとつの中国のはじまり
1949年、中国本土での国共内戦に敗れた蒋介石は台湾に逃れ、中華民国を設立。同年、毛沢東は大陸で中華人民共和国を設立。
このとき、お互い自分が負けたことも、相手を取り逃がしたことも頑として認めないわけだ。故に「中華人民共和国は台湾も含むよ」「中華民国は大陸も含むよ」てな態度でいたわけ。このドリーム支配体制はそれなりにうまく機能していた。とりあえずそういうことにしておけば面子だけは立つので、互いに実力行使に出なくても済んだわけだ。
夢の終わり
台湾では
ところが月日が流れ蒋介石にくっついてきた国民党の勢力が弱まってくると、「いい加減そのドリーム無理があるよ」と指摘する人が権力を握っちゃったりするわけだ。それがつまり李登輝であり、台湾独立を謳った「台湾正名運動」であるわけだね。
つまり、台湾の独立にまつわる一連の運動ってのは、大陸の支配から逃れようという運動であると同時に、台湾が大陸を支配してるって幻想をいい加減捨てようという運動でもあるわけなのだな。
中国では
そんで独立のために台湾で国民投票をやるとか言っちゃったもんだから大陸も黙っちゃいられない。今までアクロバティックなドリームを建前にしておくことでとりあえず面子だけは保てたのが、いきなり現実に引き戻されたわけだから、じゃあ現実的な対応て何よ?と考えざるを得なくなったわけだ。
その結果出てきたのが反分裂国家法ってわけ。
日米では
今回の日米の声明は、こうした中台の緊張を受けて、「何かあったら俺達どーすべぇ」という相談をしましたよ、という報告でもあるわけだ。危機が現実味を帯びてきたから対処も詳細を決めていくことになったわけだね。
というわけで
表面的にはこれは
- 日米
- 中国と台湾の間で戦争になるようなら黙ってないよ?
- 中国
- 内政干渉は断固抗議する。部外者は黙ってろ。戦る気か?
- 台湾
- とりあえず味方増えてうれしいなあ。
てなかんじなのですが、実際のところ
中国
- とりあえず台湾の分離独立だけは黙ってないから覚悟しとけ。
台湾
日米
- なんかあったときの用意はしとくけどさ。おまえら余計なことすんな。
といったかんじなのではなかろうか。
個人的にはあんまり事を荒立てないで済ませて欲しいとこなんですけどね。現状維持って結構リーズナブルだと思う。
DNA鑑定の二項対立
Natureが指摘する横田めぐみDNA鑑定結果の疑問点
Natureといえば自然科学研究界ではご存知トップクラスの雑誌です。そこんとこにこんな記事が載りました。
- "DNA is burning issue as Japan and Korea clash over kidnaps," DAVID CYRANOSKI, Nature 433, 445 (03 February 2005); doi:10.1038/433445a (リンクはこちら。購読はたぶん有料。)
長いのでポイントだけ要約するよ。
- 帝京大学はサンプル5点から二人のDNAを発見した。だがそれは横田めぐみのへその緒のものとは一致しなかった。
- 北朝鮮は火葬で1200度まで加熱されたDNAを検出することは出来ないだろうと懐疑的な態度を示している
- 北は科警研では得られなかった判定が帝京大学で出来たのは疑惑をはらむと指摘
- 帝京大の吉井富夫講師によると、DNA鑑定技術は標準化されておらず技法が異なることが科警研の成功しなかった理由だとしている。帝京大のPCR法は非常に敏感であり、またサンプルの状態が比較的よかったという。
- 吉井講師は火葬にされた遺骨のDNA鑑定の経験はない。
- ほとんどの専門家は、DNAは1200度の高温に耐えられないと考えていた。まあ一瞬なら1200度でもなんとかなるんじゃ?という考え方もあるがなんともいえない。
- 第三者が遺骨に触れた際、指の油が付着してそれを検出してしまった可能性は吉井講師も否定しない。
- 再検査しようにも吉井講師がサンプルを使い切ったといっている。
つまるところこの記事は以前からの「そのDNA鑑定ってほんとに信じていいの?」ってあたりを詳しく指摘してるわけだな。
では論点ごとにみてみよう
DNAは1200度の高温に耐えられない。
実際、普通に鑑定するなら200度(40分)でもきついという話もありまして、相当に信頼性は低下すると考えてよいでしょう。一瞬ならってのは苦しい話です。
が、まあこれは検証も可能です。適当な遺体をいい感じに焼いて、そのお骨から同じ手法でDNAが検出できれば証明可能。
ところで「野焼きした」はずの遺骨に、なんで千度を超える高温で処理された形跡があるんでしょう。謎だ。
伝説の映画「アリラン」をめぐる二項対立
戦前映画散逸の歴史
この安部なる御仁の伝説っぷりを説明するためには、日本映画がいかに散逸されてきたかという歴史を振り返らねばなりません。
戦前の日本映画は現在、その9割がたが失われています。なぜかというと
- フィルムが発火性のある物質でできていて、ほっとくと勝手に燃えた
- 日本の映画産業に作品の保存と言う概念が無かったため、オリジナルをコマごとに切り離して駄菓子屋に売り飛ばした(今で言うトレカのような扱い)
- 戦火で燃えまくり
- GHQが切り刻んだりとか
超絶映画コレクター
まあそんなわけで、白黒時代、特に戦前の映画は残ってるほうが珍しいという状態。今残っているうちには、映画好きが個人で持ってたものが押入れから発掘されてきたとかそんなのがごろごろ。そして日本の映画産業を参考に作成された朝鮮半島の初期映画もすべて同様の状態です。で、そんな散逸されたと考えられている映画を大量にもってそうな奴が二人いる。
ひとりは皆さんご存知の北の指導者金日成。
この御仁は自他共に認める熱烈な映画大好きっ子のうえに死ぬほど権力持ってるので、莫大なレアフィルムを蓄えこんでいると思われます。映画研究者は金体制が崩壊してもそのコレクションだけは焼かれませんように、とお星様に祈る日々だとか。
実際どうなのコレクション
今回安部氏が亡くなったことをうけて、とりあえずフィルムの管理は文化庁に移ります。しかし実際誰も見たこと無いコレクション、『ほんとにあるのか?』というのは誰もが思う疑問。それに個人がまともな状態で管理できる規模でもないので、あったとしてもボロボロになっている恐れもあるでしょう。古いフィルムなんかスキャナでばりばり取り込んでDVDにしちゃえばいいじゃないかと思うのだけれど、それ以前に映写機にかけるだけで崩れちゃいかねない現状から復元作業を行わねばならんのではなかろうか。
たくさんの映画
ほんとにそのコレクションが実在すれば、日本映画の空白の歴史を一気に埋め尽くすとんでもない宝の山です。超傑作日本映画がざくざくと出てくるはずで、みんなよだれたらして待ってますよ。映画保存協会からの引用
目録には、もうとうの昔に消失してしまったはずの溝口健二『日本橋』、伊藤大輔『新版大岡政談』、小津安二郎『懺悔の刃』、山中貞雄『盤嶽の一生』といった見つかれば国宝級の大発見になろう名作のタイトルが何ページどころか何冊にもわたってずらりと並んでいたのです。しかも一部はオリジナル・ネガ(!)を所有しているといいます。
もちろん『アリラン』もその中にありました。
世界まではいかずとも、世界の映画界はひっくり返ってしまうでしょう。
調査は東京国立近代美術館フィルムセンターが行う様子です。とはいえフィルムセンターはコンスタントに人材と予算が足りてないので、ぜひとも公募を増やして欲しいところですね。
「アリラン」
さて、こいつも安部氏の目録に載っていますが、北の指導者ですら持ってないという超レアものです。位置づけとしては朝鮮半島における超初期の映画にして大傑作とのこと。まあ目録全体から見ると大傑作のオンパレードの中の一本という位置づけなのでしょうが、朝鮮日報の記事によると
1926年に制作された『アリラン』は若死の天才映画人・羅雲奎が監督・主演を務めた無声映画だ。ある大学生が3・1独立運動に加担したという理由で拷問を受けた後に帰郷、家族を苦しめる地主を殺害し警察に逮捕されるストーリーだ。上映当時、主役が連衡される最後のシーンで観客は涙を流し『アリラン』を歌ったとされている。
とかそんなかんじらしいです。
つまるところ政治的なピントががっちり合焦しちゃってるので南北の視線の力でもう発火しそう。半島の偉大な抗日の歴史を今に伝える貴重なフィルムと言うことで、「返せー戻せーよこせーくれー」という猛烈な争奪戦がかつておこなわれたという話
あ、名前間違ってるよ>朝鮮日報
というわけで
とりあえずまだあるかもわからんし。あっても返す返さないは別としてコピーしときたいし。それにはまず補修作業しないといけないし。まあ待てや
南北
はやくーはやくー
とかそんなかんじでしょうか。
(しまった、あんまり対立してない。)
日本マンガ学会の二項対立
日本マンガ学会は香ばしい
日本マンガ学会は香ばしい。 http://www.kyoto-seika.ac.jp/hyogen/manga-gakkai.html
これは設立の準備段階から頭悪げなすったもんだをくりかえしていることからも明らかなので、そういうヘンテコ集団に求心力のある名前をつけるなと怒る人もいるぐらいだ。で、またなにやら香ばしい事態が発生しているらしいですよ。
会誌『マンガ研究』第5号編集委員会による回答
http://www.kyoto-seika.ac.jp/hyogen/vol5/index.htm
どうもこの文章だけ見るとなんのことやら部外者にはさっぱりなのだが、付属のPDFファイルもあわせて読むとなんだか変なことになっているぞ。
事実関係(時系列)
- 2003/10/31『マンガ研究』5号、締切日(郵送必着)
- 2003/11/01「新聞漫画の眼――人、政治、社会」展開催
- 『マンガ研究』5号にレビュー「「新聞漫画の眼(略)」展展評」掲載(一見投稿論文) http://www.kyoto-seika.ac.jp/hyogen/vol5/miyata1.pdf
- それを読んで「新聞漫画の眼(略)」展側から激しい反発
- 展の協力者である宮本大人からマンガ学会へ公開質問状 http://www.kyoto-seika.ac.jp/hyogen/vol5/shitumonjo.pdf
- これを受け、レビュー執筆者宮田徹也より「〈「新聞漫画の眼―人 政治 社会」展展評〉を書いた時に考えたこと」なる『感想文』が提出される http://www.kyoto-seika.ac.jp/hyogen/vol5/miyata2.pdf
- 2004/12/22 マンガ学会事務局の声明 http://www.kyoto-seika.ac.jp/hyogen/vol5/index.htm
(なお、公人の敬称は基本的に付加しない。)
双方の言い分
要約はcyanoによるものである。まあ詳細はリンク先読んでくれ。画像そのままpdfなんで引用すらめんどくさい。
- どう見ても締切過ぎてるだろコレ
- 一見投稿論文だけど実は依頼論文じゃないの?
- ツッコミどころだらけなんだけど査読どうなってんの?
- 展評論文が備えているべき要件を満たしていない
- 事実に反する記述、または誤解を招く可能性が極めて高い不適切な記述が、複数ある
- 引用の仕方が不適切である
- 議論の展開に明らかな矛盾が含まれている
- 論文要旨と本文の間に不一致がある
- 学会も協力している展覧会でこんないい加減なことしてどういうつもり?
宮田徹也
- これは会場に訪れた一般客の視点を模して書かれた「新しいスタイルの展評」である
- 宮本はマンガ学会が小規模なので舐めているのではないか
- 「日本マンガ学会設立趣意書」を読めば妥当であることがわかるはずだ http://www.kyoto-seika.ac.jp/hyogen/page/kiyaku/syuisyo.html
- 今回は反論に値しない。関係者ではなく研究者個人として意見せよ
- あれは依頼原稿だったので別の日が締切です。
- 見た目が投稿論文とまぎらわしかったのは悪かった
- 依頼原稿なので査読はありません。まあ載せてもいいかなと思いました
- まあ二人で勝手にやってくれ。俺は知らん
音楽配信の二項対立
ブロガーたちがわがままな消費者の希望と現実とを取り違え、音楽産業を衰退の道から救うために、などといって米国の音楽配信事業をモデルとした提言を繰り返すのは何故でしょうか?
http://nikki.g.hatena.ne.jp/hkt_o/20050201
http://www.hatena.ne.jp/1107247462
まず文章が意味不明瞭なので解体しますと
- 着うたの販売モデルは高価格低自由度である。
- 米国の音楽配信事業モデルは低価格高自由度である。
- CDは高価格低自由度である(という話をしたいんだよね?)
- 着うたは(1)にもかかわらず、(2)を代表するiTMSよりも人気がある(資料より)。
- (3)の市場規模から考えれば(2)の経済効果など微々たる物である(資料より)。
- (4)(5)により、米国の音楽配信事業モデルは音楽産業衰退回避に役立たない。
- (2)のモデルを採用することで消費者も音楽事業者も幸せになれるという説がある。
- (7)はわがままな消費者にとって希望である。
- 「ブロガー」は(8)で語られる希望が現実のものだと考えている。
- 「ブロガー」は(9)により、米国の音楽配信事業をモデルとすることが、音楽産業の衰退回避の道だと提言している
- (10)は(6)により誤りである。なぜ「ブロガー」はその誤りを正さないのか?
となります。
通り一遍の回答
(1-10)が正しければ、(11)に出てくる回答は「誤りに気付いていないから」「誤りに気付いているが目先の消費者利益を優先したいから」「扇動により非論理的な状態にあるから」の3択です。
しかし話の流れからすると、この(11)の質問単独にはあまり意味を感じません。むしろ「気付けよ馬鹿」的な他人を見下した印象ばかりを受けますので質問の文章にはもう少し工夫していただきたいところです。
検証してみよう
さて本題ですが、この問(11)が成立するためには、(1-10)が正しく成立する必要があります。
(1-3,7-10)はとりあえず前提としてかまわないように思えます。めんどくさいので「ブロガー」は(8,9)を肯定する狭い定義のものとしておきます。
(4-5)はご提示のありました資料では判然としませんので保留ですが、とりあえず正しいものと仮定して議論を進めます。
問題は(6)です。この質問がそもそも煽りを目的としたものでなければ、問題は結局ここに集約されます。
ここは大いに議論の余地があると思えます。その根拠のひとつである(4)は「高価格低自由度」であるにもかかわらず着うたは「低価格高自由度」なiTMS以上に人気が出ているという点です。
なぜ「着うた」はそんなにうまくいっているのか
ここには2つの理由が考えられます。
「着うた」のいいところ
第一に、消費者は安く楽なもののほうへ流れますから、その逆である着うたに人気が集まることは『高付加価値だから』という理由で説明するほかありません。『高価格低自由度だから着うたを選ぶ』わけではないのは明らかです。そんな奴がいたら変態です。ここで言う『付加価値』とは、
- A)アクセサリとして機能する
- B)普段持ち歩いている機器で利用できる
- C)購入から利用までの手間がかからない、使い捨て気分で管理が楽
- D)1曲単位で購入できるので値ごろ感がある
の4点に代表されるものでしょう。
さらに要約するなら(A)と(B)は同じ理由です。
- A+B)希望する機器で希望する方法の利用が可能である
さて、ここで論理展開上興味深い事態となりました。「自由度が低い」のが着うたの特徴であったにもかかわらず、(A+B)だけ読むとまるで「自由度が高い」かのようではありませんか
この矛盾が生じる理由は、「自由度」という言葉に意図せぬ前提が紛れ込んでいたためです。「手元で自由にコピーできるのが自由度だ」「いろんな機器で使えるのが自由度だ」「パソコンで編集したりCDに焼いたりできるのが自由度だ」…。
さまざまな「自由度」があります。「自由度」とは単一の価値パラメータではなく、その都度優先度が異なるさまざまなパラメータをひっくるめた言葉なのです。つまり、消費者は「着うた」として使うために必要な自由度に対価を支払っているのです。これが高価格であるにもかかわらず着うたが好調な理由のひとつです。
「着うた」のあやしいところ
第二の理由は、着うたが不当に高価格を維持している疑いのあることです。
経済原則に考えを戻しますと、市場原理に従うものであれば販売価格を高く維持して少量を販売するも安く設定して多売するも、いずれも商業戦略上みとめられた自由です。しかし、競争がなければ商品の品質が低下し産業自体が衰退することは過去の歴史が物語っています。独占状態の市場を構築することが「音楽産業衰退回避」であるなどという考え方は受け入れられません。
着うたはその高付加価値によって、高い販売価格であるにもかかわらず売り上げを伸ばしています。しかしそこには充分な競争があるとはいいがたいものがあります。
囲い込まれたハードウェアと囲い込まれた販売網に1社限定の配信では、多少高くても売り上げが伸びるのはありうることでしょう。
半年前、着うた参入妨害の件で公正取引委員会の強制捜査がありました。
http://www.itmedia.co.jp/mobile/articles/0408/26/news019.html
今後は着うた業界も価格競争によって単価を下げざるを得なくなるでしょう。
軽くまとめ
さて、着うたの現状はここまでで述べたとおりです。ここまででポイントとなるのは、
・高付加価値であれば客は買う
・不当な囲い込みは是正されねばならない
の2点となります。
「着うた」の限界
「着うた」に不利な将来像
では将来はどうでしょう。もちろん「着うた」が音楽消費形態のなかでシェアを伸ばしてゆくのであれば、高付加価値の商品を高コストで販売し続けるという希望を持つこともできるでしょう。しかし、「着うた」の付加価値モデルは「着うた」という限定された利用シーンを前提としているからこそ成立しているものであって、これは音楽消費全体の中で見ればレアケースです。
特に問題となるのは楽曲大量消費のケースです。ガンガン流すための利用楽曲は自然と増加しますから、たちまち数十曲、数百曲となります。着うた機器はそんな大量の楽曲を扱えません。
もちろんHDDプレーヤー内蔵着うたケータイなんてのが登場すれば、多量の楽曲も問題ないかのように思えます。しかし逆に、HDDプレーヤー側がケータイを内蔵してはいけないという理由もありません。何らかの無線インフラを利用してiTMSに直接接続できるHDDプレーヤなんてのが登場することもありうるわけです。
技術の進歩を前提としてよいのなら、iTMSを利用することと着うたを利用することの間の本質的な違いはなくなるでしょう。着うたの付加価値として列挙したうちの(A)の理由は大量消費の時点で薄まり、(C)(D)の理由は消滅するわけです。そうなれば(B)だけを理由とした競争にさらされるわけで、着うたも高コストを維持し続けることが難しくなります。
音楽配信の将来像を語る上で「着うた」への言及が少ないのは、まあ知らないというのもあるでしょうが、現在の着うたによる利益モデルが主流になりえないということが最大の理由ではないかと思います。「着うた」を「着うた」たらしめているのはそれがレアケースだからで、もし主流になればそれは既に現在の「着うた」の利益モデルを維持できないのです。
「着うた」に有利な将来像
もちろんこれに反するケースを想像することもできます。ひとつは、「厳選された音楽を少量消費」というスタイルが一般化する場合です。この場合コスト圧力は小さくなりますから、高コストモデルを維持することが出来ます。しかしそれが音楽産業の発展に繋がるかといわれると甚だ疑問です。
もうひとつは激しい価格競争が発生しないよう、国内の音楽流通を規制することです。ほかの選択肢がすべて高コストなら、着うたの高コストも当然に受け入れられるでしょう。
話戻って
ではそろそろ主題に戻りましょう。
「高価格低自由度(?)」の着うたモデルの成功を考えれば、「低価格高自由度」の米国モデルは音楽産業衰退対策として効果がないかどうか?
現在の「着うた」モデルが将来成功し、ついでに音楽が衰退しないためには、ユーザを囲い込んで高コスト状態に維持する以外ないことはここまでで述べました。そしてそーゆー独占状態の市場に健全性はありません。健全性の無い業界の未来は暗いです。
結局問題はここに帰結するのです。「音楽業界に競争は必要か?」必要ならば、(6)は成立せず、最初の質問(11)自体が成立しません。必要なければ、おそらく「ブロガー」は競争が必要だという希望と現実を取り違えているのでしょう。
プロ市民とプロ奴隷の二項対立
最近政治的に極端なスタンスの人の文章を読むと「プロ奴隷」というタームが散見される。
「プロ市民」とは
まあ諸説あるんだけど「市民」を自称して政治活動をする人の中で、特に政治活動を職業としている人のことを指して言うのがそもそも。
ここでいう「市民」ってのはたぶん「政府」とか「企業」とか「軍隊」とか、そういう公権力や利益追求組織なんかに対して「市民」と名乗っているのだと思われる。
つまり「市民」というタームには中立的で権力や金に目がくらんでいないマトモな人、ぐらいのプラスイメージがあるわけだ。
しかし「市民」を名乗って巨悪に立ち向かう行為は必然的に政治色を帯び、そこには本来の目的を超えてさまざまなイデオロギーが寄生する。実際市民運動ってのは本気でやるとものすんごくエネルギーを使うので、極端な思想を持った人なんかもどんどん取り込まざるを得ないんだな。そうして醗酵しているうちに手段と目的が入れ替わって、政治運動のためにとりあえず政府を糾弾してみたりとかしちゃったりすることもままある。
しかももともとは正義のための戦いだったので結構支援してくれる人なんかも居たりして、特に濃いあたりが専業スタッフになっちゃったりしてそれだけで生活できちゃう。「市民活動」のプロ、プロ市民のできあがりって訳だ。
「プロ市民」というターム
このタームの面白いところは、本来中立で力なきものの集合であったはずの「市民」という勢力が「中立でもなければ無力でもない」ことを暗にあらわしている点だ。何しろプロだからな。
まあ実際にはプロではなくてそっちに近い立場の人も「プロ市民」とレッテルを貼られることがあるのはいただけない。本物のプロに失礼だよね。アマチュアゴルファーだって「プロ」って呼ばれたらいい気はしないはずだ。「アマチュア市民」ぐらいが関の山ではないか
「プロ市民」は揶揄する文脈で使われるのが一般的だが、にもかかわらず言われている当人が「市民」を自称し続けているあたりも面白い。彼等は「プロ市民」と呼ばれるといい気持ちではないらしいが、同じ文脈で「市民」と呼ぶようにすればもっと強力な攻撃になるだろう。普通の意味での「市民」とまぎらわしいからやめといたほうがいいけど。
「プロ奴隷」とは
「プロ市民」「プロ市民」といわれまくって激昂した「プロ市民」のひとが提唱した、「プロ市民」の対極に位置する人たちの呼び名。
「市民」というタームが当人の自称を揶揄しているのに対して、「奴隷」はまるっきり提唱者側の印象なのでシンプルに罵倒であるな。議論においてとりあえず罵倒するととりあえず不利になるので、言われたほうは腹が立つ以前にさげすみの気持ちになりそうなものなのだがどうなんだろ。言葉の響きでレベル低そうな印象になるからやめといたほうがいいと思うんだけどなあ。
このタームがそれなりに流通しているのがまた興味深い。だれか指摘してやれよ。